平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.9-

神奈川県葉山町に佇む築80年を超える古民家・平野邸。クラウドファンディングで場づくりの仲間を集め、地域の多世代交流拠点として生まれ変わりました。長年、大切にされてきた平野邸には家族の思い出がたくさん詰まっています。今でも、この場に集まる多くの人がふとした瞬間にこの家の持つ記憶に触れてはあたたかい気持ちになります。

そんな平野邸に住んでいたオーナーのyakkoさんが、子ども時代の庭での思い出を教えてくれました。子どもたちだけが知っている秘密の通路、紙芝居のおじさんの名調子、蛍を見に出掛けた夜のことなど。知らないはずでもなぜか懐かしく感じる、まさに古き良き日本の夏の風景です。

平野邸Hayama

ご無沙汰しております。Yakkoです。
新型コロナの感染拡大がなかなか収束しませんが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は相変わらず、ミシンに向かってマスクをつくる自粛生活です。政府や自治体はワクチン接種に力を入れていますが、感染予防の必要がなくなるまでにはまだ時間がかかるでしょう。
自由に会えなくなったお友達とは、ラインやメールのやりとりをするようになりました。コロナ禍で携帯電話をスマホに買い換えたお友達が増えたので、手紙や電話以外にも連絡手段がふえたのです。

平野邸のお庭を作って下さっているNPO法人はっぷさんから、先日、庭についての取材依頼があり、娘が私の代わりに Zoomでインタビューを受けることになりました。参考のためにと思い、昔の記憶を辿りつつ、亡き父が植えていた植物を再現した絵地図を作ったところ、当時のことが鮮明に思い出されました。

今と違い、昔の葉山は家が密集して建っていたわけではありません。家と家との境界線も曖昧でした。ブロック塀の様なものはなく、せいぜい竹垣か板塀の様なもの、あるいは珊瑚樹などの生垣。珊瑚樹とは生垣によく使われる常緑樹で、赤く小さな実をつけます。
ですから兄や近所の友達と一緒に、裏庭の植え込みや竹の柵の間をくぐって、お互いの家を行き来したり、かくれんぼをしたりして、自由に遊びまわっていました。生垣の人目につかないところの枝や葉っぱを内緒で取ってしまい、子供が出入りできる抜け道、秘密の通路を作ることもしました。
抜け道があったのは、平野邸の玄関脇を裏に少し行ったところ。隣の空き地を抜け、目的地の家の生垣の抜け穴を通り抜けて、友達と合流し、遊びに行ったものです。

お互いの家の門から門まで行くやり方だと、五分近くかかるのにたいして、秘密の通路だと一分以下で行き来できます。少しでも早く一緒に遊びたかったので、この抜け道はとても便利でした。
昔の子どもにとって、遊び場は山や海だけではありません。近所に住む友達の家の庭や、空き地も立派な遊び場です。「行啓道路」と呼ばれていた国道134号線に沿った石置き場もその一つ。大きな石に座って空を見上げ、面白い形の雲を動物に見立てたりしました。何もせず、ぼーっと石に囲まれて過ごすこともありました。

当時の遊び場はほとんど残っていませんが、石置き場は少し縮小されただけで、今でも健在です。子どもの目には何でも大きく見えるのでしょう、当時は本当に大きいところだと思っていました。紙芝居のおじさんが近くに来ることがあり、名調子に感動したのも懐かしいものがあります。行啓道路もとても大きく見えました。小さな町しか知らなかったせいかも知れません。結婚後、外国、特に広い南米大陸にあるリオやサンパウロで暮らした後、葉山に帰った時には、行啓道路があまりに狭くて驚きました。

子ども時代に熱中していた遊びはかくれんぼでした。どの家にも庭があり、植え込みが茂っていたので、隠れる場所には不自由しません。今日は誰々ちゃんのお庭でやる、と決めて、家の周りや植え込みの中に身を潜めました。

敷地の外に出るのは規則違反。あまりに隠れ場所が多くなって、鬼も探しきれないからです。鬼に見つかるまで息を潜めて待っていた時間は、とてもスリリングでした。
夏になると、庭には蛇がよく出てきます。青大将と呼ばれる大きな蛇で、毒は持っていないと言われていました。とはいえ、蛇が出てくるころになると、さすがに庭でのかくれんぼはしませんでした。
庭に出てくるのは蛇だけではありません。トカゲも踏み石のそばによく現れました。家の戸袋にはヤモリが姿を見せます。トカゲやヤモリは害をするわけではなく、形が可愛いので、いつも眺めて楽しんでいました。ただとても用心深いので、すぐに姿を消してしまいます。梅雨時には、小さな青蛙がよく縁側から入ってきました。

周辺にあった畑が姿を消し、住宅がたくさん建てられるころになると、蛇も蛙もだんだん現れなくなってゆきます。自然が変わってしまったようで、ちょっと寂しい気がしますね。

現在、平野邸の庭では葉山メダカを育てています。ワークショップ中も、手前の子ども達はメダカに夢中。

旧東伏見宮邸横には畑や田んぼがあり、夏休みの夜には、友達のお兄さん(大学生でした)に誘われて、子どもたちだけで暗い小道を歩き、蛍を見に行ったこともありました。「ほ、ほ、蛍来い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ。」などと大きな声で歌いながら、暗闇を歩いて行ったのです。蛍の自然な光は、暗闇の中でとても明るく見えました。
その頃の子どもは、夕方になると「蛙が鳴くから帰ろ」などと歌いあって、暗くなる前には家に帰宅していました。大学生のお兄さんが付き添ってくれたとはいえ、子どもたちだけで夜に出歩くことは、滅多になかったのです。

朝は、近所から聞こえてくる鶏の声で目が醒めます。このころの葉山では、鶏も身近な存在でした。
夏の夜、食卓を囲んでいると、庭から虫が入ってきます。網戸がなかったため、蛾やカミキリムシなどが、ちゃぶ台の上の電球めがけて飛んでくるのです。大事なご馳走に落ちたりしないよう、とくに蛾が入ってきたときは、大急ぎで新聞紙を広げて食卓にかぶせました。最近は宅地化が進んだせいか、夏でもそんなことは少なくなりましたが。

ところで風船虫という虫をご存知でしょうか。コミズムシとも言いますが、コップに入れた水に入れると風船が空に漂う様に水の中を上下します。風船と言うより、むしろ水の中でエレベーターに乗っているかの様に見えて、ふわふわ上がったり下がったりする姿が面白いのです。
風船虫をコップに汲んだ水に入れて、眺めるのも大好きな遊びの一つでした。水に入ったコップに小さな紙切れを入れると、その紙切れを持って水を上下する虫もいました。
昔は蟻もたくさんいました。放っておくと砂糖壺に群がるので、水を湛えた皿の中心に砂糖壺を置いたものです。若いみなさんは、戦時中の暮らしを描いたアニメ映画『この世界の片隅に』に、似たような場面があったのを思い出されるかも知れません。
砂糖壺がお城で、皿の水はお堀という感じです。蟻はお堀で溺れるか、諦めて、砂糖以外の餌を求めて行列を作って去って行くのでした。

平野邸のそばにある旧東伏見宮邸は、昔は気軽に近づけない特別な場所でした。洋館のほかに和館もあり、車寄せもある、それは立派なお屋敷とお庭だったのです。
車寄せの両側には、色々な木々の茂る植え込みがありました。私は中にどんな人が住んでいるのだろうかと思いを巡らせ、洋館の白い壁と、緑青の銅の屋根を眺めていただけでしたが、兄は友だちと植え込みに忍び込み、こっそり探検していたようです。
戦後、このお屋敷は、カトリックの修道院になり、その後、幼稚園もできました。和館は取り壊され、洋館のみが葉山のシンボルの様に残っています。

私が物心ついた頃の葉山には、戦前に建てられた立派なお屋敷や別荘がたくさん残っていました。今、ファミレスのジョナサンがあるところの周辺は、元華族の方のお屋敷で、やはり車寄せのある広大な日本風のお屋敷でした。昭和20年8月15日の正午、近所の人たちが集まって、昭和天皇の「終戦の詔勅」(いわゆる玉音放送)を聞いたのもここです。
その後、お屋敷によばれて、立派なお雛様を見せて頂いた事がありました。長い長い廊下を通ってお座敷に案内されたのをおぼえています。
これらの家や別荘は、どんどん取り壊され、今は数えるほどしか残っていません。寂しい限りですが、古い家を維持していくのがいかに大変かは、姉が亡くなっていらい、私も痛感しました。実家を平野邸Hayamaとして残す事ができたのは、ありがたい事だと感謝しております。

戦後、近所の子ども達の間では、ターザンごっこが流行りました。山に行ってはターザンになった気分で野性的な叫び声をあげながら、野山をかけめぐったものです。

我が家にも玄関脇に、大きな樫の木がありました。小学校高学年の頃、この樫の木の上に兄が「ターザンの家」と称して隠れ家を作ります。太い枝と枝の間に板を渡し、縄で固定しただけの簡単なものですが、妹の私は入ることを許されず、せいぜい下から一緒に”あ〜ああ〜”とターザンのように叫ぶくらいでした。
このころは映画が娯楽の王様だった時代。逗子の映画館で『ターザン』が上映されて、流行っていたんですね。外国の秘境で孤児になり、動物に育てられて逞(たくま)しく育ったターザンは子ども達の憧れでした。

京浜急行の逗子・葉山駅があるあたりにも映画館がオープンし、私は母や姉たちとしょっちゅう観に行きました。母は宝塚歌劇や映画が大好きだったので、学校が休みの日、逗子へ買い物に行くついでに、子ども連れで映画館を訪れていたのです。
まだテレビが普及する前で、映画産業は全盛期。鎌倉の近く、大船には松竹の撮影所がありました。小津安二郎や溝口健二など、世界的な巨匠と呼ばれることになる監督がここで活躍していたのです。小津監督の映画に何度も主演した原節子をはじめ、映画関係者もこのあたりによく住んでいました。
鎌倉にも市民座という映画館があり、夏休み中など、よく洋画を見に行きました。駅の近く、鎌倉野菜の直売所があるあたりだったと思います。
コロナ禍のせいで、映画館を訪れることもなくなりましたが、私は今も映画好きです。昔の『若草物語』などを見ると、姉たちとの葉山での生活が懐かしく甦るのです。平野邸でも、初めてネットフリックスで映画を鑑賞することができました。

平野邸の縁側前のお庭に、ブロッコリやスナップエンドウを植えていただいている様子、インスタグラムで楽しく拝見しています。レンガで綺麗に囲った花壇を作っていただいているあたりには、私が小学生のころも花壇がありました。戦争が終わり、世の中も落ち着いてきて、花壇に色々な作物や花を植えるのが流行っていたのです。
母は作物を植えたり、畑作りをするのは不得意だったのですが、兄と私に小さな花壇を作ってくれて、何でも好きなものを植えて良いと言いました。何を植えたかは覚えていませんが、自分の花壇をもらった日のワクワクした気持ちは忘れられません。
夜は蚊取り線香を焚くだけでなく、蚊帳を天井から吊って寝ました。布団を囲むように吊したあとは、下の部分をさっと持ち上げ、ちょこちょこと蚊帳の端を揺すってから、一瞬で入るのがコツ。
でないと、蚊が入り込んでしまうのです。蚊帳を揺するのは、一緒に入ろうとする蚊を追い払うため。
夜は遅くまで雨戸を開けておいたので、暗い中、涼しい風が入ってきます。月の光に照らされた庭の木々の影が蚊帳に映り、自然と共に眠りについたものでした。

平野家の思い出がつまったお庭ですが、気候変動の影響で育てやすい植物も変わってきているかと思います。皆さんがずっと楽しんでいただけるお庭になればと願っています。

開催を危ぶむ声の多かった東京オリンピックも、どんな形になるかはともかく、いよいよ7月に開催されそうですね。
1964年、前回の東京オリンピックの際、私は主人の転勤でギリシャにいました。家にはテレビがなかったので、あまり覚えていませんが、葉山の実家では皆、テレビの前で応援したようです。

アテネでの一枚

2018年に姉が亡くなった後、家を片付けていたら、長火鉢の引き出しの中から、「ピース」というタバコの箱がたくさん出てきました。箱のデザインは、どれもオリンピックを記念したもの。
異なる競技をあしらったものが何種類もありました。姉は全部集めようとしたのではないかと思います。二箱を記念に持ち帰り、さらに二箱を平野邸の神棚に飾っていただいたうえで、残りは桜花園の方に持っていってもらいました。

前回のオリンピックの前と後で、日本は大きく変わりました。東海道新幹線、首都高速、名神高速、羽田空港と浜松町を結ぶモノレール、すべてオリンピックに合わせてできたものです。
開催前年、1963年にギリシャに渡ったのですが、開催の三年後、1967年に帰国したときは、風景が様変わりしていてビックリしました。それでも葉山の実家周辺は、新しい家が増えたものの、あい変わらず静かで穏やかな時間が流れていました。
今回のオリンピックの後、日本の風景はどうなるでしょうか。大会そのものがどんな結果になっても、また大きく変わっていくような気がします。けれども平野邸のある葉山はいつまでも変わらず、穏やかな空気の流れる、懐かしい風景の残るふるさとであり続けて欲しい、と願っています。

 

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平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.8-

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