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平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.8-

ハロリノ編集部

神奈川県葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ葉山の平屋」。この古民家で生まれ育ったオーナー、Yakkoさんによる「葉山暮らし回想記」連載8回目は「生まれ変わった平野邸の親戚お披露目会」についてのお話です。

「平野邸Hayama」となったあと、初めて実家に帰ることに、私も内心ドキドキしています。行く途中、旭屋さんで買い物をしたり、海を眺めたりしていたので、すっかり夕方になってしまいました。
薄暗がりの中、久しぶりに門の前に立つと、昔より立派になった表札に、暖かい明かりが灯っています。金属製だった門は、黒い木でできた門に変わり、子どもの頃を思い起こさせました。門の左右は木の塀になっていますが、私が若かった頃は、木製の門で庭の周りは竹垣で囲まれていました。

門を開けると、玄関にいたる踏み石をフットライトが照らしています。庭の木々の向こうに、家の明かりが洩れています。ふんわりした暖かい明かりを見ていると、今でも姉や両親が暮らしており、私を笑顔で迎えてくれそうな気がして、胸がいっぱいになりました。

引き戸の玄関をカラカラ開けると、生成りの麻の長い暖簾が下がり、小さな花が飾られています。
家の中から、かすかな話し声と音楽が聞こえてくると、昔にタイムスリップしたような気持ちになり、「ただいま」と心の中でつぶやきました。じつはラジオから、地元FM局の放送が流れていたのです。普段はテレビの音声に馴染んでいる私ですが、このラジオも心を癒してくれる洒落た演出のひとつでした。

ラジオの音声には、不思議とテレビのような押しつけがましさがありません。「平野邸Hayama」に滞在した三日間、古き良き時代のジャズや、なつかしいクリスマスミュージックが流れていたのですが、それがこの家にはぴったりと調和して、良い雰囲気を醸し出してくれました。
茶の間の隣が台所ですが、ここは素敵なアイランドキッチンになっています。姉の使っていたガス台や冷蔵庫、食器などが、新しく設置されたものと一緒に置いてありましたが、違和感はまったくなく、きれいに馴染んでいました。
食器棚や、茶の間の文机は、戦前から使っていたものです。今も健在で嬉しくなりました。とはいえ、本当に驚き感動したのは、庭に面した廊下の角に古いミシンが置かれていたこと。私が物心ついたころは、母のシンガーのミシンが全く同じ場所に置いてあったのです。

茶の間にある丸い大きな和紙の照明器具も私の大好きなタイプのもので、東京の自宅でも同じ照明器具を使っていたことがあります。また庭の木の枝を拾ってつくったライトには、家を見に来た3番目の姉も驚嘆の声をあげていました。
アイランドキッチンは高さもちょうど良く、お料理のしやすい造りになっています。ただ年齢のせいか、昔のようにちゃぶ台で正座するのは厳しいので、奥の部屋にあった黒い椅子を台所に持ってきて並べました。つまりはアイランドキッチン自体をテーブルがわりにしたのです。
もう一つ、感動したのはお風呂でした。2番目の姉が住んでいたときは、入りにくい小さなユニットバスでしたが、湯船が大きな信楽焼に変わっています。昔、この家のお風呂場が総タイル張りだったことを思い出しました。
脱衣室の前にかけられた藍色の麻の長いのれんも感じがよく、海の底を彷彿とさせる青い信楽焼の湯船とも、よく調和していました。最近のお風呂は、温度や水量が自動で調整できるものばかりですが、自分でお湯加減をして入るお風呂も、味があって良いものです。

かつて私が生まれた奥の部屋は会議室となり、長いテーブルと椅子が置いてあります。それらを少し動かしてもらい、布団を敷いて寝ることにしました。隙間風が入って寒いのではないかと心配していたのですが、全くそんなことはなく、ゆっくりと熟睡できました。
お気に入りの丸窓も健在でしたし、床の間のしつらえにせよ、モダンなインテリアにせよ、かつての雰囲気を全く壊していないのを嬉しく思いました。さらに風情のある草花が飾られるなど、何気ない心遣いがあちこちに感じられ、居心地よく滞在をすることができました。
会議室ではスクリーンを下ろして映画も見ることができるとのことでしたので、Netflixを初体験させていただき、大いに楽しみました。母は映画が大好きで、戦後、幼い私を連れて、逗子や鎌倉の映画館に足繁く通ったものです。昔のたたずまいを残したこの家で、映画館さながらの大画面を鑑賞できる日が来るとは、母も夢にも思わなかったことでしょう。

葉山メダカとの対面も楽しみにしていたのですが、残念ながら叶いませんでした。寒いので冬眠(?)していたのかも知れません。よどんでいた池が、きれいに澄んだ水をたたえるようになったのを見て、かつて兄が魚を飼っていたことを思い出しました。
以前も書きましたが、私には樺太で生まれた3人の姉と、こちらで生まれた兄がいます。兄は横浜の病院で生まれ、私は奥の和室で生まれました。姉たちとは年が離れていたので、小さいときの遊び仲間はもっぱら兄でした。
今よりも男女差別が激しく、跡取りとなる男児がいることが重要だった時代です。両親もやっと生まれた一人息子に期待をかけていました。兄が生まれるとすぐに、庭に落ちて怪我をしては大変だと、縁側に全て柵を取りつけたほど。

その後も三越の写真館に何度も行っては、両親と兄だけ、あるいは兄だけで写真を撮っています。私はねえやさんと一緒の写真か、戦地の父へ送るために姉弟全員で撮った集合写真しかありません。

母は教育ママの本領を発揮、兄の名前を連呼して「勉強しなさーい!」とご近所に響き渡る声で叫びます。真名瀬に向かう上の道からも聞こえたくらいですが、マイペースな性格の兄はみごとに馬耳東風、家を抜け出しては海や川、あるいは田んぼに行って、虫や魚と遊んでいました。

兄は生き物が大好きで、中学・高校時代、女中部屋で熱帯魚を飼っていたこともあります。玄関の右横、今は倉庫として施錠されている部屋です。ところがある日、熱帯魚の水槽を洗っているとき、うっかり魚を流してしまいました。優しい性格の兄は、泣きながら裏庭の下水まで探しに行ったものです。敗戦後、食料の乏しい時代に、飼っていた鶏をつぶして食べた際も、かわいそうだと泣いていました。
体の弱い兄は戦争中、しょっちゅう感染症になり、奥の部屋で隔離されていました。看病していた母は、貴重品の砂糖を使った葛湯などを、特別に飲ませてやります。私は縁側のガラス越しに、兄が優遇されるさまを、うらやましく眺めていました。

兄は長じてからも釣りが得意で、色々な魚を釣っていました。「海ではその人の地位や学歴、バックグラウンドなどは一切関係ない、釣りの技術だけだ」が口癖。両親の勝手な期待や、姉や妹の喧騒、世の中の煩悩に左右されることなく、魚との世界に没頭してきました。兄は兄で、独自のスタンスを貫き、幸せな人生を生きていると思います。
そんな兄をご存じの方が、平野邸を訪れてくださっているとうかがいました。感無量です。幼いときから遠くの学校に通い、早く結婚して家を出た私より、兄はずっと葉山に根ざしていたのでしょう。
今では年齢相応に忘れっぽくなった兄ですが、姉が亡くなった後で久しぶりに訪ねたところ、とても懐かしそうに笑顔で迎えてくれました。幼い頃、兄や近所の友達と一緒に、葉山の野山や海で遊び回った日々は、ずっと私の宝物です。

アテネ、リオデジャネイロ、サンパウロと、若い頃は海外生活が多かった私も年齢を重ね、葉山に対する思いも変わってきました。昔は生まれ育った場所を早く出て、新しい世界へ行ってみたいと強く思っていたのですが、振り返ってみると、いつでも帰れる「ふるさと」があったからこそ、どこへでも飛び立ってゆき、どこにいても落ち着いた生活ができたのだと思います。
葉山の実家こそ、その「ふるさと」の中心であり、心のよりどころだったのだと、今回の滞在で実感しました。古い部分を残したまま、新しくモダンな雰囲気を加えられた「平野邸Hayama」も、懐かしくあたたかい心のふるさとでありつづけるでしょう。

▼前回の記事はこちら
オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.7

▼平野邸Hayamaについてはこちら
空き家から賑わいを創出! 地域で巻き込み合う場づくりの仕掛け

 

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