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平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.7-

ハロリノ編集部

神奈川県葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ葉山の平屋」。この古民家で生まれ育ったオーナー、Yakkoさんによる「葉山暮らし回想記」連載7回目は「平野邸に眠っていた手紙で振り返る、家族や友人とのつながり」についてのお話です。

ご無沙汰しております。Yakkoです。
海開きもないまま暑かった夏が終わり、秋も瞬く間に過ぎました。すっかり寒く、冬めいてまいりましたが、新型コロナが再び感染拡大している中、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

私は相変わらず自粛生活です。マスクづくりにも励んでおり、自由に会えなくなったお友達と文通や交換日記ならぬ交換マスクをしています。

スマホで簡単に連絡を取り合うことのできる昨今ですが、私は手紙が大好きです。葉山の実家を片付けているときも、仏壇の引き出しや洋服ダンス、押入れの中などから、大量に手紙が出てきました。箱に入った状態で、大切に保管されていたのです。
古くは戦地へ行った父から家族に当てた手紙や、戦時中に専門学校の寮に入っていた姉が家族に当てたもの。
あるいは戦後、私が横浜の学校のお友だちとやりとりしたもの。こうやって夏休み中、お互いの家に招待したのです。今ではすっかり立派になった甥たち(両親にとっての孫達)が、子どもの頃、祖父母に宛てて書いたかわいらしい手紙などもありました。

ところがそれらを読むうち、両親が私の結婚にたいへん不安を抱いていたことが判明したのです。
親戚からの手紙には「ヤッコちゃんの好きにさせてあげなさい。今の若い人は何でも自分の好きなようにするのだから。海外勤務にでもならないかぎり、共稼ぎしなければ食べていけなさそうな相手でも……」などと、慰めの言葉が書かれていました。悩みを打ち明けられたのでしょうが、当時、両親は2番目の姉をなんとか結婚させようと必死になっていたころ。末娘の私が、まさか結婚相手を連れてくるとは思っていなかったのでしょう。
両親にしても、私の結婚相手が不満だったというより、まだまだ子どもどもっぽく頼りなかった私が、ちゃんとやってゆけるのかどうか気がかりだったのだと思います。私は親戚の子どもたちと比べても一番年下でしたし、日本は敗戦から20年足らず。
まだまだ貧しかったのです。若い男性はみんな、経済力がないように見えたのではないでしょうか。

両親は私の結婚について、親戚に手紙で相当こぼしていたようです。けれども、共稼ぎをめぐる心配は杞憂でした。私は主人の海外勤務に何度もついていくことになったのです。結婚して数年が経ち、初めての海外赴任でギリシャのアテネに発つとき、羽田空港で母が縋る様に真剣な顔で、主人に対して、「ヤッコをよろしくお願いします」と頼んでいたことをよく覚えています。
結婚するまで、葉山を出たことがなかった私は、未知の世界への憧れが強く、外国に行きたくて仕方がありませんでした。1ドルが360円の時代、海外に渡航したり、海外に住んでいる日本人は少なかったのですが、不安より期待が大きく喜んで主人についていきました。
しかしアテネに着いた途端、海から潮の匂いがしてきたのです。葉山で子どもの頃から親しんできた潮の香りとまるで同じ。葉山や家族、日本にいる友達を思い出した私は、それまでの期待は何処へやら、一気にホームシックになってしまい、部屋でひとり泣きました。

心配させないよう、家族への手紙にはアテネでの生活の良いところだけを書いていました。そのころ、アテネにいた日本人は大使館や民間企業の駐在員の家族も含め30人に満たなかったと思います。慣れない海外生活でしたが、皆さん親切で、色々なことを教えて頂き、楽しい暮らしをすることが出来ました。
また現地の人たちとも親しくなり、ギリシャ流生活をともに楽しみました。海辺のレストランでワイングラスを傾けながら夜が更けるまでおしゃべりしたり、ダンスをしたりと、地中海の夜を楽しく過ごしたものです。
夏は有料のビーチで海水浴を満喫したので、私のホームシックはまもなく消え去りました。長女が生まれたのもアテネでのことでした。

日本に帰国して6年後、今度はブラジルのリオデジャネイロへの転勤について行きました。コパカバーナ海岸へ歩いて5分のところに住んでいましたが、さすがに慣れたもので、葉山が懐かしいなと思う程度でした。偶然ですが主人の転勤先は海辺の町が多く、葉山との不思議な縁を感じたものです。

おもしろかったのは聖職者になるためにローマへ留学していた3番目の姉が送って来た「声の手紙」です。ヨーロッパではオープンリールのテープ(この時代、カセットテープは普及していませんでした)に声や歌などを入れて送りあうのが流行っていたらしく、ローマでの生活を実家の両親に理解してもらおうと送ったようなのですが、誰も聞いた形跡はありません。デジタル技術で復元してもらい、まだ20代の姉の声を半世紀ぶりに聞くことができました。

両親は姉の進路にも反対していました。もっとも父は最後には娘の選択を尊重、修道院に入る前に、二人で奈良、京都、九州などゆっくり旅して回りました。その間よく話し合って、姉の強い意志を理解したようです。
母は最後まで反対し、二週間も泣いていました。聖職者の道を選べば、生涯独身を貫くことになります。母は姉にたいして、結婚して家庭を築いてほしかったのです。女性がキャリアに生きるのは、まだまだめずらしい時代でした。
姉の決心は揺らぐことなく、神学などを学ぶため船でローマへ渡ります。そして「声の手紙」が送られてくるのですが、現地での誓願のミサ(誓願とは生涯、聖職者として生きて行くと誓いを立てることです)や賛美歌までテープに録音、弾む様な生き生きした声で、家族や同僚へのメッセージを吹き込んでいました。文字を読むのではなく、音を直接聞いたら、自分がいかに幸せな留学生活を送っているか理解してもらえると期待したのでしょう。
カトリックの総本山であるローマには、各国から聖職者をめざす留学生がやってきます。この留学生仲間が日本語の歌を内緒で練習し、姉の誓願の日に「ふるさと」の歌を披露して祝ってくれました。それを聴いた姉が大喜びする様子も、テープに収められています。
「声の手紙」の最後には、みんなの声や甥のピアノ演奏などを録音して、ローマに送り返してほしいと吹き込まれていました。けれども残念なことに、テープは実家でお蔵入りになってしまい、日の目を見るまで半世紀以上も待たねばならなかったのです。

アテネに3年ほど滞在している間、ローマに留学していた姉を訪ねたことがあります。私が中学生だった頃に修道院に入った姉は、末妹が大人になって、自分の話し相手もできるようになったと喜んでくれました。さっそく両親に手紙を書いたらしく、その手紙も古い箱の中から出てきます。きっと両親は、娘たちが外国でそれぞれ幸せに暮らしていることに安堵したでしょう。
ヨーロッパと日本の間を手紙が行き来するには、1週間から10日ほどかかります。それらの手紙は両親を安心させ、私たちには葉山で過ごした幸せな日々と郷愁を伝えてくれたのでした。

3番目の姉は、12月24日のクリスマスイブに樺太で生まれたのですが、公式には1月1日生まれになっています。昔は1月1日に生まれた方がめでたいから、などと言う理由で誕生日を親が勝手に変えて届け出ることがあったのです。聖職者になるとわかっていれば、クリスマスの日を生まれた日にしておいた方が良かったかも知れません。
そんな姉も間もなく90歳になります。CDに収録した「声の手紙」を届けたところ、たいそう喜んだ様子で、自分のお棺に入れてねと言っていました。もっとも、まだまだ長生きしてほしいものです。大人になってからの私の最高の相談相手であり、同時に良い友人でもあったのですから。
昔は近所に住んでいないかぎり、簡単に人に会うことはできませんでした。ある意味、ソーシャルディスタンスが強調される今の時代に似ています。だからこそ、手紙を通じて家族や友人とのつながりを大事にしてきたのだと、山のように残された古い手紙を読んで実感しました。
私の結婚をめぐる両親と親戚のやりとりのように、家族について、今まで知らなかった一面も、いろいろ見えてきます。おかげで手紙の整理には、ずいぶん時間がかかりました。

コロナ禍のせいで、半年ほど葉山を訪れる機会がありませんでした。つまり「平野邸 Hayama」になったあとの様子は、インターネットを通じてしか見ていなかったのですが、ハーブなどの畑もつくられ、お庭が着々とできあがっている様子を嬉しく眺めていました。
ところが12月に入り、最後までこの家に住んだ2番目の姉の法事を、平野邸で行うことになりました。親戚への内覧会も兼ねてのことです。
2番目の姉は、やはり生涯独身です。聖職者になったわけではなく、両親は必死で結婚させようと努力したのですが、ついに葉山の実家を出ることはありませんでした。晩年には「自分が死んだあと、親族がここに住まないのであれば、葉山で暮らす人たち、あるいは葉山を訪れる人たちに家を使ってほしい」と言っていました。

ですから「平野邸 Hayama」は、姉の希望をかなえる形でオープンしたのですが、いろいろな媒体で紹介されるにつれ、親戚の間でも「子どもの頃から訪れていた葉山の家がどのように変わったか、ぜひ見てみたい」という声が高まります。そこでコロナ禍のさなかではありますが、葉山や逗子、鎌倉など、近隣に住む親戚に限定する形で集まってもらい、生まれ変わった平野邸を披露しながら、姉を偲ぶことにしたのです。念のため、来てもらう時間も少しずつずらしました。

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